最初はまだあいつがOってバンドやってるときで、シェルターの同僚から「堀内さんと赤松さんって似てません?」って言われて「ちょwwあんなのと一緒にすんなよwww」みたいな、なんつーか、「あんなやつは認めん」みたいなカンジだった。
でも、Oはロフトレコードから出してて浦野さんが担当やってたり、そのうちあいつはROCKET Kもやりだしたりで、シェルターに来ることが多くなり、俺もROCKET Kのライブはよく行ってたし、あいつがもういっこやり出したバンドDRUNK FUXも他のメンバー共々ライブの打ち上げとかで飲むようになり、シェルターでも五味とかとガンズやLAメタルの話で盛り上がったり、まるで必然のように仲良くなっていった。
DRUNK FUXのベースだったニッキーはそれ以前にSTRAWBERRYというバンドでよくシェルターに出てて、上で書いたシェルターの同僚(女)は「カッコいいカッコいい」なんて騒いでたんだが、赤松くんとよくつるむようになり、その同僚はニッキーの口調が段々赤松くんみたいになってきたことを嘆いていたなw
その頃は大袈裟じゃなく、ほぼ毎日朝まで飲んでいた。
ほぼ毎日朝まで飲んでるので、常に脳がアルコール漬けみたいなカンジだったから、あんまり記憶が定かじゃないからwあいつが毎日一緒にいたかどうか、よく覚えてないんだけど、でもよく一緒にいたような気がする。
あいつ朝方になると段々ヒゲが濃くなってきてさw
「赤松くん、ドロボーみたいな時間になってきたよw」なんつって。
そのうち俺はシェルターを辞めるんだけど、関係は変ることなく、それまでと同じようにしょっちゅうつるんでいた。
この頃になると、「あんなやつは認めん」どころか「唯一認めるやつ」になってきて、一緒に原宿に服買いに行ったり(男同士のデートだなw)、ROCKET K/DRUNK FUX/BACK DROPSの3バンドでの大阪、浜松ツアーについてって珍道中を繰り広げたり、一緒に朝まで飲んでて、解散し、俺は家に帰って寝てたんだけど、あいつはその後も飲んでたみたいで、ウチに押しかけて来たこともあり(まっぴらだったから開けなかったけどw)、逆に、一緒に飲んでたら「ウチに行こう」って言うんで行ったら奥さんが寝てて、あいつはまた他の友達と飲みに行ったんだけど、俺はもうグロッキーでそのまま何故かあいつのカミさんと一緒にいたりw(別に変なことはしてないよ。ホームページの作り方とか教えてもらってたんだ。念の為w)、より深く関わるようになってきた。
シェルター辞めた前後くらいに俺はロフトで「プチ週末」っていう夜中のイベントを始めるんだけど、やはりこれもゲストDJを含めたら、あいつがダントツで一番出ていただろう。
プチ週末でカバー大会やったときも確かあいつは2バンドで出たんじゃなかったかな。
いつだったかのプチ週末で、真夜中のライブが過ぎても来なかったので「今日は来ないのかな」とか思ってたら、終わる直前くらいにブッチャーズの吉村さんとシェルターの西村さんと3人でギター弾きながら入って来たことがあって、メチャクチャな登場すぎて笑ったよ。
この頃だったと思うんだけど、俺がちょっと苦手な人のオールナイトパーティーにROCKET Kが呼ばれ、古閑さんは「ロケットクルーとしてはゼッタイ来てよ」なんて言ってて、俺は「やだなー」とか思いながら、まあ行ったんだけど、夜中に酒飲んであいつと暴れてたら、そんなことはどうでもよくなってた。
その苦手な人がハノイのモーターベイティンをかけてた真後ろでアンディとマイケルの真似をしてる俺達を見て、その人も嬉しそうだった。
で、そのうち俺は松本でライブハウスの店長をやることになり、当然居もそっちに移すんだけど(ていうかライブハウスに住んでたんだけどw)、それでも月2くらいで下北行ってたし、今度は俺の企画で松本、浜松、下北でROCKET K/DRUNK FUXのツアーをやったり、青春とはまさにこのことでは、という日々を過ごしていた。
そしてその松本のライブハウスは経営難で会社から「たたむ」と言われたんだけど、俺は買い取ってでもやり続けようと、色々なところに相談し、色んな人が協力の姿勢を見せてくれ、ギリギリだけどこれはいけるかも!というところまで話が進んだ頃、あいつから飲みに誘われ、この時のことは何故かよく覚えているんだけど、下北のせっちゃんであいつと二人で飲んでて「ホリーの気持ちはよくわかる。よくわかるが、やめた方がいい」と、ライブハウスを続けようとすることを止められた。
それでも俺は、もう完全に燃えていたから(若さかよw)「いや、でもいけそうなんだよ」とか言って、あいつを困らせていたと、今になって思う。
結局その後、色んな人から止められ、諦めることになるのだが、真っ先に俺の燃える闘魂に水を差したのはあいつだった。
周りが見えなくなってる俺を心配してくれたんだろうな。
そして俺はまた東京に舞い戻り、今度は渋谷のライブハウスで働き始めるんだけど、ここでもやっぱりあいつには随分頼り、ROCKET Kはもちろん、DRUNK FUXもこのちょっと前まで活動休止してたんだが、再開するということで真っ先に声をかけたし、またその後DRUNK FUXが不安定になったときPUBLIC ENEMY #1というバンドをニッキーとはじめ、そのバンドにも何度か出てもらった。
余談だが、あいつが作った曲、ROCKET KやDRUNK FUXでも色々あるが、個人的に一番好きな曲はPUBLIC ENEMY #1の「SLOW SUICIDE」という曲だ。
ライブ会場で売ってたデモしかないので、どうにか広く聴けるようにできればいいのだが…。
渋谷のライブハウスをやめ、次に俺はそれまでの仕事とはまったく関係ない、西新宿の会社で働くんだが、偶然、そんときあいつが働いてた会社もすぐ近くで昼休み合わせて一緒にメシ食ったりしてた。
そのちょっと後くらいに次にあいつはCAT LOVES STRAWBERRYというバンドを作って、俺もそのバンドのホームページ作ったり、そのバンドのレコ発にはDJで誘われたり、相変わらず、良く言えば仲の良い友達なんだけど、まあ、なぁなぁなカンジだよねw
そして俺はその会社もやめ(こう書くと俺やめてばっかじゃねw)、結婚したりして、居を浦和に移し、仕事も自営になり、そうすると以前のように頻繁に下北には行かなくなった。
それでも、大体下北に行くときはあいつと飲むときだったし、あいつがやるイベントにはDJで誘ってくれてた。
この頃に亡くなったあいつの母親(版画家だった)の遺した作品が大量にあり、自分が持っているには持て余してしまうので、どうにかできないかという相談を受け、あいつんちにも行ったが、例により丸投げみたいなカンジでよこそうとするから断ったんだけどw
去年末に夜中あいつから電話がかかってきて、「やばい、下北が退屈だ。つまらなさすぎる」とか言ってたので、「わかった。じゃあ行くよ」と夜中だったけど終電近くの電車で下北に行ったんだ。
あいつが寂しいとか言うんだったら、俺は行くよ。俺達はそういう関係だったんだ。
でも、行ったんだけど、あいつ酔っ払ってその辺のベンチで寝ちまったらしく、連絡がとれなかったよw
結局アテもなく、一晩中下北をさまよい、さすがに俺も怒ったけどねw
俺が古本屋ということで、あいつも本やCDを買取してくれと送ってきたこともあり、あいつ自分でもヤフオクよくやるから嫌な予感はしてたんだけど、査定額出したら「しっぶw」とか言い出して明細も出してくれとか言うんで、じゃあ返送するから自分で売りなよ、つったら「いや、もうホリーに任せたからいいよ。愛してるぜ弟よ」とか言って、文句たれた挙句上から目線かよwとか思った。
こないだの9月末に「家の中がカビだらけになったから、もうモノをすべて処分したい」みたいなよくわからん理由で再度買取を頼まれ、前のこともあるから「査定はこの前と同じカンジだと思うよ」と伝えたら「あんときはイケイケだったから悪かった」と、これまたよくわからんことを言うので「オッケー、じゃあ送ってくれ」と送ってもらったら、本やCDの他にTシャツやらシド・ヴィシャスの写真や人形、バックルなんかのガラクタも入ってて、Tシャツや写真なんかはボロボロで「これじゃちょっとキビシーね」と言うと「それはプレゼントっす」とのことだったので、Tシャツ2枚と人形、バックルだけ残し、あとはソッコー捨てたw
だって、どう考えてもゴミなんだもの。
肝心のCDもどうやったらこんなになるんだよwつーくらいキズだらけで、ユニオンとか色々持ってって、ダメだったやつを送ってきたんじゃないか、と思った。
それでも、それなりの額を提示すると「思ったより高くてよかった」と嬉しそうにしていた。
それから1ヶ月も経たない、10月14日、あいつは死んだ。
39歳の誕生日を迎える1週間前に。
ジョニーサンダースと同じ38歳という年齢で。
ジョニーサンダースの歳を超えることに焦っちまったのかな。
破滅的な男だったから、最初からわかっていたことのような気もする。
一月前の買取も、どういうつもりか、遺品整理みたいになっちまった。
これだけ一緒につるんでいたやつだったから、色んなことを思ったよ。
俺は「こいつが有名になれないんだったら日本は終わってる」とか思ってたけど、そのうち「やっぱこいつじゃ無理だw」と思い、死んだと聞いたときは「ここまでのやつだったんだ」と、死んだやつに水を差すようで悪いが、そう思った。
ただ、本当に色んな思考になったので、ちょっとこういうブログとか書かずにいたんだけど、思考も落ち着き、まとまってきたので、こうして書いてるわけだ。
その落ち着いたところというのは、あいつが「ここまでのやつ」だったかどうかは、結局これからの俺次第なんじゃないか、ということ。
あいつと出会い、あいつと話した言葉が、あいつのひとつひとつの考えが、あいつのカオスの渦が、あいつの優しさが、ともに過ごした、まさに青春と呼ぶに相応しい時が、確実に俺の人生を良い方向へ動かした。
だから俺はこれからもあいつの伝説、伝説というにはちょっと吹き出しちゃうような物語を、ほんの少しずつでも広めていき、俺と同じように、誰かの人生をそれこそミリ単位でもいいから、良い方向に動かしていくんだ。
あいつがよく言っていた「愛」とかいう、それのために。
これが、色々考えた結果、とりあえずまとまった俺の想いだ。
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散々心配かけたよな。俺がケーサツに捕まった!なんてときも、ソッコーあいつから電話きて、次の日には話したこと全部みんなに知れ渡ってたみたいなw
俺も散々心配したし、メーワクも被ったし、助けられたり、助けたり、メチャクチャでアタマに来ることもあったし、でも、そういうのも全部ひっくるめて、俺たちがともに過ごしてきたあの時代は、紛れもなく、青春だったんだ。
青春なんてとっくに終わったと思ってたけど、これで本当に終わったような気がするよ。
もうこんなやつには出会えない気がするし、こんなメチャクチャなやつはもう結構って気もするしね。
これから先も、俺はあの時代を糧に生きていくよ。
メチャクチャな青春を、ありがとう。
いくら寂しくても心配でも、さすがに俺もそっちまでは行けないから、とても寂しいし残念だけど、もう一生、永遠に、お別れだ。
アディオス、アミーゴ
俺たち結構似てたみたいだぜ